一人きりの夜に、ふと思い出す。
幼い頃によく見ていた夢。風邪をひいて熱を出すと、決まって見る悪夢。無機質な機械が不快な音を発てて稼動し続ける。
混沌とした風景の中に、一人佇む自分の姿。逃げようとするわけでもなく、泣いているわけでもなく、ただどうしたら良いかわからずその場に立ち尽くす。
はっと目が覚めた瞬間、ああ夢で良かったと安堵して、額に滲む汗を拭う。高熱による息苦しさに襲われまた不安になる。
そんな夢を幾度となく見ていたけれど、そういえばいつの間にか見なくなっていたな。
思いながら忍は、ふぅと苦しげに息をつき、横たえていた身体をゆっくりと起こした。
時計を見ると、真夜中の0時過ぎ。喉がカラカラに乾いていることに気付き、ベッドを降りてリビングに向かう。
コップに入れたミネラルウォーターを半分飲み、テーブルに置いてあった体温計で熱を測ると、39度を超えていた。
さすがにヤバいなと思い、冷蔵庫にある保冷剤をタオルで包んで、寝室に戻る。
休日前の夜で良かったと思いながら、身体中の痛みを堪え目を閉じた。
(あと1日……)
忍は心の中で呪文を唱えるように呟いた。
蓮川が四泊五日の修学旅行の引率に出向いたのは、四日前のこと。たかが四日なのに、ずいぶんと長く感じるのは、きっと突然の体調不良で弱っているせいだ。そう自分に言い聞かせ、忍はぼんやりとする頭で恋人の姿を思い浮かべる。
真面目で几帳面で心配性の恋人は、基本自立はしているものの、時折非常に抜けているところがあり。今回の出張時も、忘れずに持っていけと念を押した携帯電話を、しっかりテーブルの上に忘れていく始末。
おかげで連絡することもままならず、声も聴けない日が四日続いたわけだが。
(別に、そのくらい……っ)
ふと頭の中に浮かんだ「寂しい」の文字を勢いよく吹き飛ばし、忍は熱で紅潮した頬を更に熱くさせ、寝返りを打って頭まで布団を被った。
馬鹿。蓮川の馬鹿。馬鹿。馬鹿。
あんなに何度も言ったのに、なんで忘れていくんだ。間抜けにも程ある。いざという時に連絡がとれないと周囲が迷惑するだろうが。なにより本人が一番困るから、あれほど言ってやったのに、ピンポイントで携帯だけ忘れていくって、もはやわざとなんじゃあるまいな。
明日の夜帰ってきたら、うんと説教してやる。
次から次へと溢れてくる苛立ちを、頭の中の恋人にぶつけまくりながら、忍は眠りに落ちていった。
なんで俺ってこうなんだろう……。
修学旅行四日目のホテルの一室で、蓮川は自分にうんざりしながら深く溜息をついた。
うっかり携帯を忘れたがため、どうしようどうしようと焦ることはあったものの、どうにかこうにか今のところ大きなトラブルはなく、仕事はまあ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。それよりも、あれほど忍に忘れるなと言われていたのに、という焦りの方が強い蓮川である。
帰ったら絶対に絶対に怒られる。どうしようどうしようどうしよう……。悶々と考えるが、どう考えても、世の中で一番愛してる人だけど一番怖い人でもある恋人の血まみれの顔面しか思い出せない。(※高校時代のトラウマにより)
帰ったらひたすら謝ろうと何度もシミュレーションする。今夜は嫌な夢を見る予感しかしない蓮川であった。
「忍くん、プリンとアイスどっち食べる?」
「ハーゲンダッツのバニラアイス」
「スーパーカップで我慢してくれないかなぁ?」
ピクピクと表情を引きつらせながら、光流がスーパーカップ片手に言った。
しかし忍にぷいと背を向けられ、スーパーカップとぷっちんプリンをコンビニの袋にしまって立ち上がる。
買ってくりゃいいんだろ買ってくりゃと心の内で悪態をつきながら、不機嫌そうな忍の後姿を見て苦笑した。
ハーゲンダッツの料金は後日蓮川に請求するとして、弱っている今は色々とチャンスだ。普段なかなか触れない(触らせてくれない)、色んなところを触れるチャンス。決して性的な意味ではなく、とにかく忍に構いたい(構ってほしい)光流であった。
そんなわけで、近くのコンビニでハーゲンダッツを買いなおし、いそいそと忍の元へ戻ると、忍は深い眠りに落ちていた。
(やっぱエンジェル~~~)
何年たってもいくつになっても、何故にこんなにエンジェルなのか。サラサラの前髪を掬い冷えピタを貼りなおしながら、光流は目を細めた。
可愛いすぎる寝顔を見つめることが今の精一杯という若干の空しさに襲われながらも、かといって欲情を覚えるわけでもなく、気分は寝ている猫を眺めるような、推しを眺めるような、とにかく尊いという感情しかそこにはなく。
「光流先輩、顔気持ち悪いよ?」
突然背後から声をかけられ、光流はビクッと肩を震わせた。
振り向くと、瞬がにっこり微笑みながら、どこか蔑みの篭った目を向けてくる。
「気持ち悪くて悪かったなっ」
「あ、ごめんごめん、言い方悪かったね。顔緩んでるよ?」
あははと笑いながら瞬が言う。
「忍先輩が風邪なんて珍しいね。余程すかちゃんいないのが堪えたのかな?」
「さらっと傷つくこと言う達人だよな、おまえって」
光流はわなわなと肩を震わせた。
「そりゃ元彼と今彼じゃ雲泥の差に決まってるじゃん」
「俺はもうそういう域じゃねーんだよっ、ただただ純粋にだなぁ……!」
「わかるよ、光流先輩の気持ちは。僕だっていまだに麗名のこと、なんで神様はこんな可愛い生き物を造ったのかって、神様ありがとうとしか思えないくらい可愛くて仕方ないもん。でもね」
ふと瞬は真剣なまなざしを光流に向けた。
「どんな可愛い生き物でも、成長すればしっかり自分というものがあるの。自立して生きてるの。僕たちに出来るのは見守ることだけなの」
「腹立つ。おまえの上から目線、無性に腹立つ」
「だって僕は忍先輩のこともすかちゃんのことも光流先輩のことも可愛くて仕方ないから~」
ニコニコ笑いながら人の尊厳を踏みにじる瞬に、光流はもはや返す言葉を失った。
「おまえら、うるさい……」
いつから聞いていたのか、忍がむくりと起きて低い声をあげる。
「あ、ごめんね。忍先輩、大丈夫? どこか痛いとこない? 寂しかったら僕がずっと手握っててあげるから、大丈夫だからねっ」
そう言いながら、瞬は忍のありとあらゆるところを触りまくる。(※決して性的な意味ではなく)
さっきまで言ってたことはナンなの!?と光流は心の内で叫んだ。
五日ぶりに恋人に会えるというのに、なんなんだろうこの足の重さは。
荷物より重い心を抱え、蓮川は恐る恐るマンションのドアを開いた。
「た、ただいま……です」
そーっと声をあげるものの、家の中から忍が出てくる気配はない。
今日は日曜日。靴はある。ということは絶対居る。それなのに出てこない。イコール物凄く怒っている。
蓮川は即座に分析し、バクバクと心臓の音を鳴らせた。
「し、忍先輩……?」
そっと音をたてないようにリビングのドアを開けるが、やはり忍の姿はない。いよいよヤバいと思いながら、荷物を置いて忍の部屋のドアの前に立ち、一呼吸置いてからコンコンとノックするが、やはりなんの応答もなかった。
「忍先輩、いますよね……? 開けますよ……?」
相変わらずビクビクしながら、蓮川はドアに手をかけそっと扉を開く。
そしてベッドの上で横たわっている忍の姿を見るなり、慌てて近寄った。
「忍先輩……?」
一瞬倒れているのかと焦った蓮川だったが、寝息をたてて眠る忍を前に、なんだ寝てるだけかとホッと息をついた。
それにしても、こんな時間に熟睡してるなんて珍しいと、そっと額に手を添えると、いつもと全然違う熱さを感じ目を見開いた。
「忍先輩……!」
熱!熱がある!!そう気付いた瞬間、蓮川は焦りのあまり忍の頬を両手で包み込み、大きな声をあげた。
「はす……かわ……?」
深い眠りに落ちていた忍が、ぼんやりと目を開き、目の前の蓮川を見つめる。
「どうしたんですか!? 熱あるなんて、俺一言も聞いてないです!!」
「連絡とれないんだから、当たり前だろう、馬鹿……」
「あ……」
力ない声でそう言われ、蓮川はようやく正気に戻った。
「す、すみません……! でも俺、こんなことになるなんて思ってなくて……!」
すみませんごめんなさいと、今にも泣きそうな顔をする蓮川に、忍が手を伸ばして抱きついた。
「いいからさっさと、看病しろ……」
酷く優しい声。そして、酷く弱々しい。蓮川はますます泣き出しそうに、強く忍を抱きしめた。
出張後で疲れ果てているはずなのに、なんだかんだと世話をやこうとするものの、ただオロオロするばかりの蓮川を前にしたら、不思議と一気に熱が引いて、ああしっかりしないと思ったら、急速に意識がハッキリとしてきた。
でも、必死になる蓮川の姿が、あまりに可愛くて愛しくて。
もうしばらく、病人のフリをしておこうと思った。
「アイスなら食べれますか?」
そう言って蓮川が差し出したのは、スーパーカップのバニラアイス。つい笑ってしまいそうになるのを堪え、忍は「食べさせてくれないのか?」と甘い声で訴えた。
五日ぶりに会う恋人は、帰る前に想像していた怖い怖い恋人とは正反対で、まるで小さな子供みたいに素直に可愛く甘えてくる。
そのあまりのギャップに、蓮川は心の内で悶えまくった。そして混乱していた。
ええと目の前のこの人は忍先輩で、忍先輩だから怖いのは当たり前で、なのになんでこんな可愛くて綺麗で愛しいんだ!?
よくわからない心のままに、スプーンですくったアイスを忍の口元に差し出す。
アイスクリームを受け止める、小さく開いた濡れた唇を見つめたら、胸がどうしようもなく疼いた。
(どうしよう……)
今すぐ、その唇を奪いたい。そんな衝動にかられてどうしようもなかったけれど、相手は病人だ落ち着けと自分に言い聞かせた。
「い、いつから、おかしかったんですか?」
必死で胸の鼓動を抑えようと、蓮川は尋ねる。
「一昨日の夜からかな」
「一人で大丈夫でしたか?」
その質問に、忍は一呼吸おいてから応えた。
「……大丈夫じゃない」
まっすぐに、潤んだ瞳でそんなことを言うものだから。
どうしようもなく胸が高鳴っって、蓮川はそっと忍を抱き寄せて、「すみません」と小さく言った。
本当は、風邪くらい全然大丈夫だった。
光流も瞬もウザいと思うほどに世話をやいてくれたし、病院も行ったし、薬も飲んだし、あとはひたすら寝て回復を待てば良いだけだというのも解っていたし。
身体が痛いのも、意識が朦朧とするのも、悪夢を見るのも、辛いけれど。
本当に辛かったのは、多分そんな事じゃなくて。
おまえの顔が見れない。声が聴けない。この温もりを感じられない。……寂しい。
きっと、そうだったのだと、会えてようやく気付く自分の相変わらずの鈍さに、忍は心の内で失笑した。
「もう絶対に、携帯忘れるなよ」
せめて声だけでも聴けるように。
そう言うと、蓮川は心底反省しているように、「はい」と小さく応えた。
風邪が移ると拒否されたけれど、この五日間の埋め合わせはどうしてもしたくて、せめて一緒に寝させて下さいとお願いした。
確か帰ってくるまで死ぬほど疲れてて、死ぬほど眠くて。
帰ったら目一杯謝って許してもらって、今夜は早く寝よう。そう思っていたのに。
「忍先輩て、案外素直ですよね」
「全く素直ではないが、おまえほど捻くれてはいないな」
「俺、そんなに捻くれてます……?」
でも言われてみれば、確かにそうかもしれない。
忍が素直にまっすぐに、寂しさを伝えてくれたにも関わらず、自分はといえば携帯忘れたと落ち込んだり、怒られる心配ばかりで、忍に会いたいだとか寂しいだとかは微塵も思ってはいなかったような……。改めて己の薄情具合を思い知らされ、蓮川は酷く落ち込んだ。
「おまえほど素直な奴もいないけどな」
「どっちなんですか……?」
意味がわからず、蓮川は目を据わらせた。
「素直というより「わかりやすい」かな」
「あなたと違って、作り笑いとか出来ないので」
呆れた風に蓮川は言った。
「俺のは作り笑いじゃなくて営業スマイルだ」
「良く言えばですよね」
忍の詭弁に、はいはいと蓮川は応える。
「でもそういうのって、解りますよ」
「おまえは解らなかったじゃないか」
「常に違和感は感じてましたって。あの時だって」
怒りの感情のままに暴力をふるってしまったが為に脅え暮らし、予想外に許してはもらえたものの、なんだかおかしいなという疑念は拭えなかった高校時代を思い出す。
「あれだけ思い切り殴られて笑って許せるわけないだろう?」
にっこり微笑みながら忍が言う。ああ今も許してないんですねと蓮川は嘆いた。
「だから、一生責任とりますってば……!」
何度も言わせないで下さいと、蓮川はうんざりしたように言って、それからそっと忍の頬に手を寄せた。
「あの時も、素直に怒ってくれて良かったんですよ……?」
「年長者のプライドというものがあるだろ、馬鹿」
「だからって呪われても……」
結果的に呪いは今なお続いているわけだから、成功といえば成功なのかもしれないけれど。そう言うと、忍は満足気に微笑んだ。
「ここまで成功するとは思わなかった」
「あなたって人は……」
本当に。本当に……。
蓮川は言いたい言葉を懸命に堪えて、ぎゅっと忍を抱き寄せた。
「……っん……」
「汗……凄い……、大丈夫ですか……?」
汗で額に張り付く前髪を掬いあげ、快楽に悶える忍の唇に唇を寄せる。
「う……つる……から……っ」
「今更なに言ってんですか」
クスリと笑って、蓮川は唇を重ねた。より一層、手の中の熱い塊が硬さを増す。溢れる蜜がぐちゃぐちゃと音を立てる。舌を絡ませながら喘ぐ忍が愛しくて、より一層激しく舌で求めると、忍は朦朧とした瞳で必死に応えてくる。
「ん……あ……あぁ……っ!」
腕の中で達する忍が、首に腕を回してぎゅっと抱きついてくる。
素直に寂しさを訴える忍を思い出し、愛しさで気が狂いそうになる。
だから今は、今だけは。
「俺も……素直になっていいですか……?」
もしかしたら、あなたを壊しちゃうかもしれないけれど。そう囁いて、返事も待たずに忍の奥を求め、求めるままに激しく中を犯した。
そう、わかっているんだ。心のままに暴走すれば、あの時みたいに、きっと、絶対に、相手を傷つけてしまうから。
必死で抑えて、言い訳ばかりして、自分の本当の心を殺して、いつも生きている。
でも、この人ならきっと、そんな自分ごと受け入れてくれる。
「あ……も……っ、もっと……!!」
愛してくれるって、信じられる。